スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

水曜日の神さま / 角田光代 著

作家・角田光代氏の海外旅行に関するエッセイ集。

水曜日の神さま / 幻戯書房 / 角田光代 著

⇒ Amazon.co.jp で詳細を見る

普段、エッセイは読まないが、著者の角田光代氏は好きな作家の一人ということもあり、何となく手に取り、読んだ本である。彼女は、30ヶ国以上の国に旅行経験があるほど旅行好きな人間である。その彼女がどんな旅行観を持っていて、それが自身の小説にどう反映されているのかを知りたかったことも、この本を手に取った理由の一つである。

本書の『運命の旅』というエッセイの中で、旅について、次のように述べられている。

人生を変えてしまう読書というものがあると私は思っている。
それを読んだときの年齢や心持ちや環境など、自分ではあずかり知らぬことながらあらゆる条件が揃ったときに、ある本を読む。ものすごい出合いかたをしてしまう。その後のことが、がらりと変わってしまう。そういう本との出合いは、たしかにある。
それとまったくおんなじに、旅にもそういうことがある。そのとき、その瞬間、その年齢、その季節、その行き先、その日程、その経路で旅をすることによって、その後の人生が変わってしまう。そのくらい強烈な、運命の旅とでも呼びたくなるものが、人生に一度ある。本ならば年齢の節目によって幾度も体験できるが、旅の場合は一回こっきりだ。私は前々からそんなふうに思っている。私のなかでほとんどそれは真理である。
私の場合は二十四歳の旅がそれだった。行き先はタイ、一カ月半かけてタイ国内だけをまわった。その旅をしていなければ、私は今、まったく違った人間だっただろうと思う。価値観や趣味趣向はもちろん、書いている小説も違ったはずだ。 (中略) 運命の旅というたった一枚きりのカードを、私はすでに使ってしまったと実感している。だから、旅先で、そうと気づかず運命の旅をしている人に会うと、心底うらやましくなる。その人の、これから大きく変わっていくだろう人生に、人ごとながらわくわくしてしまうのだ。

角田氏が旅に対して特別な気持ちを抱いていることがよくわかる。旅先の人々や自然の描写がとても上手いので、特に旅行を趣味としていない私でも、いつか海外旅行に行ってみたいと思わせてくれるエッセイだった。

本書は、とても読みやすく、すぐに読み終えることができるだろう。あまりにすらすらと読めてしまうため、物足りないと感じる人がいるかもしれない。特に彼女の小説を読んだ後の読後感のようなものを期待している人は、読み終えた後に何も残らなかったと感じることがあるかもしれない。感覚的に言うと、本書は、仕事を終えて、『明日から休みだ。ゆっくりしよう』という気分で、休日を迎え早い段階で読むと、残りの休暇をなんとなく贅沢に過ごすことができそうなエッセイ集である。例えば、平日5日間の仕事を終え、土日の2日間を休日とすると、土曜日の午前中に本書を読むと、良いかもしれない。このエッセイ集には、旅行記以外にも、角田氏の母親や父親のこと、食べ物や日常生活に関するエッセイが収められており、ところどころ彼女の人となりを感じることができる。それが彼女の作品にどのような形で反映されているかを想像するのも、面白いだろう。海外旅行の魅力を知りたい人で、彼女の小説が好きな人は読んでみるとよいだろう。


テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

議論のレッスン / 福澤一吉 著

議論とはそもそも何なのか、建設的な議論をするためにどんな予備知識が必要なのかが解説されている本。

議論のレッスン / 日本放送出版協会 / 福澤一吉 著

⇒ Amazon.co.jp で詳細を見る

建設的な議論をするためには、議論のルールに則った論証をしなければならない。
論証とは、根拠から主張を導く行為のことである。根拠は、経験的事実(データ)と論拠に分けられる。経験的事実(データ)は、議論の際に明示的に触れられる根拠のことである。論拠は、経験的事実(データ)を支えるものであり、議論の際に触れられない隠された根拠・暗黙の仮定のことである。論拠は、主張する者にとっては、「当然で、あたりまえのもの」や一般常識、社会通念のことであり、さらに、別の言い方をすると「論証する必要のないもの」やバイアス、視点のことである。論拠によって、主観的に経験的事実(データ)が収集されることが決定される。経験的事実(データ)は、独立して存在するものではなく、論拠に依存しており、論拠によって主観的に意味が決定されるものである。

以下は、論拠が経験的事実(データ)の意味を決定している例である。

≪ある男が犯罪を犯したかどうかを判断する場合≫

論拠1 : 「自白は信憑性がある」
経験的事実(データ) : 男は「私がやりました」と自白した。

主張 : 「彼は犯罪人である」

論拠2 : 「自白は警察から強制されたものであり、信憑性がない」
経験的事実(データ) : 男は「私がやりました」と自白した。

主張 : 「彼は無実である」

つまり、経験的事実(データ)がまったく同じであるにもかかわらず、論拠(視点)を変えることで、正反対の主張が導き出せるのである。これが、論拠が経験的事実(データ)の意味を決定しているということである。

議論が噛み合わないときは、たいてい論拠がお互いの間で共有されていない。本書では、主に論拠に注目し、良い論証をするための方法が解説されている。しかし、議論の際、自分の論拠を認識しておくことは易しいことではないだろう。論拠を認識するとは、自分の思考そのものを客観的に把握し認識することであり、これはメタ認知能力が問われていることにほかならない。メタ認知能力は個人差が大きく、訓練しなければ伸ばすことができないと言われている。建設的な議論ができるようになるには、本書で解説されている予備知識の習得以外に、メタ認知能力も鍛える必要があるだろう。


テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ / 瀬川晶司 著

35歳で会社員からプロ棋士になった瀬川氏の自叙伝。

泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ / 講談社 / 瀬川晶司 著

⇒ Amazon.co.jp で詳細を見る

瀬川氏のことは、2005年当時マスコミで大きく取り上げられたので、ご存じの方もいるだろう。
通常、プロ棋士になるには、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である奨励会に入会する必要がある。そして、奨励会の中で勝ち抜き、四段に認定されるとプロ棋士になることができる。奨励会には、全国からトップレベルの子どもたちが集まり、その入会試験にパスするだけでも難しい。入会できたとしても、奨励会には年齢制限制度があり、26歳までに四段になれなかった者は、強制的に退会させられ、二度とプロ棋士になることはできない。
瀬川氏は、奨励会に入会し三段までのぼりつめたが、三段リーグを勝ち抜くことができず、26歳の年齢制限で退会した経験があった。苦い経験を乗り越えて、アマチュア棋士として再生し活躍していた瀬川氏だったが、彼が35歳のとき、2005年に日本将棋連盟に嘆願書を提出した。実力さえあれば誰でも年齢に関係なく、プロ棋士になることができる制度を作ってほしいという内容であった。当時、瀬川氏の対プロ棋士の勝率は7割を超えており、仲間の協力に支えられて、日本将棋連盟にプロ棋士になりたいという意向を表明したのである。
日本将棋連盟は、連盟所属のプロ棋士全員による投票の結果、瀬川氏のプロ棋士編入試験将棋を実施することを決定した。(後に日本将棋連盟はプロ編入試験将棋を制度化した)
プロ棋士編入試験将棋は、全部で六局行われ、三勝できた時点で合格、四敗した時点で不合格とするもので、合格するとプロ棋士として四段を認定するものであった。瀬川氏は第五局で三勝し、見事にプロ棋士になることができた。
本書は、上記の経過の中での苦悶や葛藤を瀬川氏自身が書いた自叙伝である。

以下、印象に残ったところを抜粋。

つねに精神が張りつめている奨励会員にとって、遊ぶことは必要である。次の戦いのために遊ぶのであれば。だが、僕は、何かから目をそむけるために遊んだ。その何かとは、死にひとしい年齢制限の恐怖だった。努力をするためには、現状の把握が必要である。それができて初めて、どんな努力をすべきがわかる。だが、僕にはそれができなかった。現状を直視することは、死が自分にどれだけ迫っているかを直視することにほかならない。そのあまりの怖ろしさに、僕は逃げた。逃げて、流されて、それでも自分が四段になることは疑おうとしなかった。いま、もし僕が苦しんでいる奨励会員にいえることがあるとすれば、逃げないでほしい、ということだけだ。逃げずに恐怖を見つめてほしい。前進はその向こうにしかない。逃げて悔いを残さないでほしい。

これは、瀬川氏から奨励会員に向けたアドバイスである。瀬川氏自身が逃げることによって、プロ棋士になることができなかった経験があるので、非常に含蓄のある言葉である。自分にとって大切なことに取り組むとき、恐怖が付きまとうことがあるが、事を全うする上で、恐怖の克服が大きな課題であることがよくわかる。

以下、印象に残ったところを抜粋。

あとは用もないので、将棋会館を出た。猛やんが僕を見ていた気もするが、よく覚えていない。いつものように千駄ヶ谷で電車に乗り、中野で降りた。いつものように改札を抜けて大通りに出た。僕の下宿は細い道を右に曲がった先にある。だが僕はその道を通り過ぎ、まっすぐに大通りの人込みのなかに入っていった。やがて通りの端まで来ると、横断歩道を渡り、通りの反対側を、駅に向かって歩いた。駅まで来ると、また横断歩道を渡り、さっき歩いた通りを歩いた。そんなふうに夕方の大通りを、僕は何周もぐるぐると歩いた。歩いているうちに、きょう起こったことがだんだん、わかってきた。僕は年齢制限になった。奨励会を退会になった。僕はもう一生、プロになれない。僕が谷川や羽生と名人位を争うことは、もう絶対にない。僕はゼロになった。小学五年生からこの歳になるまで将棋しかやってこなくて、将棋がなくなったんだから、ゼロだ。残りは一ミリもない。ゼロだ、ゼロ。そこまで理解した僕は自分の腕を切り落とし、目を抉り出し、頭を叩き潰したくなる衝動に駆られた。こんなもの、もうあってもしょうがない。ないほうがいい。無意味で無能で、かっこだけ人間みたいなものがよけいに腹立たしい、僕の体、僕の全部。僕は僕を消したかった。消えてなくなりたかった。青酸カリを飲むとこうなるのかと思うほど苦しかった。次に、とてもつもない後悔が襲ってきた。なぜもっとがんばらなかったんだ。時間は、ありあまるほどあったのに。こんなことになるなら、もっとがんばればよかった。もっと詰め将棋を解いて、もっと棋譜を並べて・・・。あまりにつらい後悔に耐えきれず、僕は矛先を変えた。全部将棋のせいだ。将棋なんかやらなきゃ、こんな目にあわずに済んだんだ。ふつうに暮らしていけたんだ。どうして将棋なんか、将棋なんかやってしまったんだ・・・。すれ違う人たちが、僕を見てはっとした顔になっている。それで気づいた。僕は涙を流しながら歩いていた。

これは、瀬川氏が三段リーグでの対局に敗れ、年齢制限による退会が確定的になり、対局が行われた将棋会館を出た後の記述である。何ともリアルな記述で、そのときの様子が痛いほど伝わってくる。

日本将棋連盟への嘆願の是非はともかく、前例を覆すために行動を起こし大きな騒動の中心にいた瀬川氏の自叙伝は非常に読み応えのあるものだった。生い立ち、将棋との出会い、ライバルと切磋琢磨する中で全国中学生選抜将棋選手権大会で優勝した経験、奨励会での苦闘と仲間との傷の舐め合い、奨励会を退会することが確定したときの絶望感、将棋に見切りをつけ再生した様子、再び将棋を指し始め将棋を指すことの楽しさに気づいた様子、プロ棋士になる決意を固めた経緯が、その時の正直な気持ちとともに述べられていた。
何より文章が読みやすいので、どんどん読み進めることができた。将棋を知らない人でも、最後まで飽きることなく読み終えることができるだろう。今、目標に向かって頑張っていて苦境に立たされている人が、本書を読めばきっと何か得るものがあるはずだ。


2

テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

«  | ホーム |  »

プロフィール

endurance09

Author:endurance09

主にノンフィクション系(ビジネス、科学、ドキュメンタリー)を読みます。小説も読みます。たまに映画も見ます。

リンク

最新記事

月別アーカイブ

カテゴリ

ビジネス (5)
科学 (1)
ドキュメンタリー (4)
ドキュメンタリー小説 (2)
小説 (1)
エッセイ (1)
未分類 (0)

最新コメント

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。